ドラム缶工業会

ドラム缶の歴史

1903 年~ ドラム缶の誕生…生みの親は女性ジャーナリスト

ドラム缶の誕生[1903年~]…生みの親は女性ジャーナリストドラム缶は100年程前の1903年(明治36年)にアメリカの女性ジャーナリストによって現在のドラム缶とほぼ同じ形状のものが考案されたのが始まりです。
米国では1860年代、石油の発見とともに従来からの鯨油に代わって灯油が照明用に使われるようになりましたが、この原油や灯油の運搬、貯蔵用には木樽が使われました。しかし、木製であるため暑さ寒さに弱いという欠点がありました。この木樽に代わる容器として、登場したのがドラム缶です。
当時世界初の女性新聞記者として知られていた米国人のネリー・ブライ(Nellie Bly)が1899年(明治32年)に欧州を旅行し、そこで見たグリセリンの入れの金属容器をヒントにして金属による石油の容器(すなわちドラム缶)の生産を思いつきました。
彼女は帰国後自分が経営を任されていたニューヨーク州のアイアン・クラッド社というメーカーで生産に取りかかり、試行錯誤の末200Lドラム缶の生産に成功して1903年にデザインを登録しました。
しかし、この時期のドラム缶には強度面での問題があり、本格的な需要拡大と普及にはなお10年あまりが必要でした。

1914 年~ ラム缶需要の拡大と日本への渡来

ドラム缶の需要が大きく伸びたのは、1914年(大正3年)から1918年(大正7年)にかけての第1次世界大戦の時でした。戦時需要と自動車の普及により石油消費が急速に増加し、石油の輸送容器としてドラム缶が注目され、飛躍的に需要が伸びたからです。
次いで1920年代に入ると、アメリカで新油田が相次いで開発されたために石油の供給が過剰気味となり、我が国にも石油が安値で入ってくるようになりました。日本に初めてドラム缶が渡来したのはこの頃です。
1924年(大正13年)に、船の出入り商人が名古屋港に入港した米国船から空ドラム缶を買い取り、店頭に陳列したのを、新潟の小倉石油(後に日本石油と合併)が買い取ったのが、日本における最初のドラム缶の到来といわれています。

1929 年~ 石油需要の拡大とともに増す役割…日本におけるドラム缶の生産

1929年(昭和4年)には日本石油と小倉石油により、日本で始めてドラム缶の製造が開始されましたが、これは両社とも自社用に使われたので、当時市場で流通しているドラム缶はほとんどがアメリカから輸入されたものでした。しかし、これでは増大する需要に対応出来ないため、1932年(昭和7年)に日本のドラム缶製造業界の草分けとも言える本野吉彦によってドラム缶専業メーカーである「合資会社日本ドラム罐製作所」(現日鉄住金ドラム)が設立され、生産を開始しました。
1931年(昭和6年)に満州事変が勃発すると、これによる大量の軍需に応えるため石油用を中心にドラム缶工場が全国各地に設置され、ドラム製造業者も急速に工場や規模を拡大していきました。
太平洋戦争へと戦火が拡大していくのに伴い、軍需品として石油製品、工業薬品などは厳重な統制下に置かれ、その容器を製造するドラム缶製造業も軍の管理工場として増産につぐ増産を強いられました。我が国のドラム缶産業の基盤はこの時期に確立されたということができます。

1938 年~ 第二次大戦戦時下のドラム缶生産

第二次大戦戦時下のドラム缶生産[1938年~]戦火が拡大するにつれて、ドラム缶は軍役の最重要資材の一つとなり、1938年(昭和13年)4月に、国家総動員法が公布されると、ドラム缶業界にも国策にそった協力が要請されました。
そこで、同年6月に関東の12工場が東部ドラム缶工業組合、11月には関西の18工場が西部ドラム缶工業組合を結成、更に翌1939年(昭和14年)2月にはドラム缶工業組合連合会という全国組織に統合され、生産の調整が図られたのです。
1941年(昭和16年)8月、米国が日本への石油輸出を停止したため、日本は南方の占領地から石油を調達する必要が生じ、軍部はドラム缶業界各社に対し、満州・朝鮮・ジャワ・シンガポール・フィリピンと、次々にドラム缶工場の建設を要請しました。資金・資材は逼迫し、人手不足も深刻な状況に陥っている中でドラム缶各社は内地の工場を何とかやりくりして、貴重な従業員をこれらの地域へ多数派遣しました。
しかし、軍部が計画した南方から日本への石油の輸送は思うようにいかないばかりか、戦時中にドラム缶業界から派遣された人たちの多くが現地や帰国途上で犠牲になりました。
一方、国内のドラム缶生産は戦時下で軍事行政下に置かれていましたが、戦況の悪化とともに肝心の鋼材が入手できないため、軍からの生産割当を辞退しなければならない状態になりました。

1945 年~ 戦後の苦境から朝鮮戦争による特需へ

1945年(昭和20年)の敗戦は、日本を荒廃させ、国民をかつて経験したことがないような苦境に追いやりました。この苦境はしばらく続きましたが、1950年(昭和25年)6月に朝鮮動乱が勃発すると日本経済はこれにより立ち直りのきっかけをつかみました。
日本の他の多くの産業と同様に、ドラム缶業界も朝鮮戦争を機に復興に転じ、ドラム缶が特需の重要な品目の一つになっていたこともあって、ドラム缶製造各社の生産は急速に増大しました。
朝鮮戦争前年の1949年(昭和24年)にドラム缶業界は約115万本のドラム缶を生産していましたが、この特需によりドラム缶の生産は大幅に増加し、ピークの1952年(昭和27年)には250万本にもなりました。
しかし、1953年(昭和28年)7月の休戦協定が締結され朝鮮動乱が終結すると、この特需はほぼ終了し、1954年(昭和29年)以降はドラム缶の生産も90万本台の水準となりました。
この間1952年(昭和27年)9月にはドラム缶業界の活性化に伴い、ドラム缶製造業者の全国的な単一組織としてドラム罐工業協会(現ドラム缶工業会)を結成しました。

1955 年~ 新たな発展へ

昭和30年代に入り日本経済が立ち直るとともに石油製品の生産量も増え、それに伴ってドラム缶の需要も再び伸び始めました。この時期から鉄鋼メーカーが薄板の販売促進に力を入れたこと、素材の鋼板がコイルの形で供給されるようになったこと、口金・巻き締め技術が進んだことなど、環境が整ったこともあり、「日本ドラム罐製作所」は1959年(昭和34年)に日本初のドラム缶製造のオートメーション工場を神奈川県相模原に完成させました。
また、このころからJIS規格の制定をはじめとするドラム缶の工業標準化が進み、その後、全国各地のドラム缶工場のオートメーション化や輸送手段の合理化も進みました。

1960 年~ 高度経済成長と共に躍進したドラム缶

昭和30年代後半から日本経済の高度成長がスタートするとドラム缶は全く新しい時代を迎えました。ドラム缶の生産は1954年(昭和34年)の岩戸景気以降、特に昭和40年代には年々大きく増加し、48年までの約10年間で生産量は30年代はじめの約10倍に増加し、ほぼ現在の生産規模になりました。
また、用途もそれまでの石油関係中心から化学中心へと移り、発展を続ける日本経済のなかで大きな役割を果たすようになっています。
高度経済成長と共に躍進したドラム缶

2000 年~ 現在のドラム缶の生産

このように、ドラム缶製造産業は数々の問題を乗り越えて発展してきました。
2006年(平成18年)にはJIS規格が改正され、1.0㎜以下(0.6㎜まで)のドラム缶が製造可能となり、時代のニーズにあった更なる進化を遂げております。
また、翌2007年(平成19年)には新ドラム缶出荷数が年間1,556万本(2013年:1,317万本)と過去最高に達していますが、その形状は約100年前にネリー・ブライが考案した形をほぼ保っています。